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川越地区とは

印刷ページ表示 更新日:2019年3月13日更新

作成:岩国市地域おこし協力隊 堤耕作 
お問合せ:岩国市周東総合支所地域振興課 ・ 周東川越公民館

川越地区とは

岩国市周東町の北部に位置し、三瀬川(さんぜがわ)、獺越(おそごえ)、檜余地(ひよじ)の三地区からなります。
ほぼ全域が標高200mを超え、中でも檜余地地区は標高400mを超える高地です。
そのため夏は涼しく、寒暖差が大きいので良質な米や野菜が採れます。
戸数約200戸、人口約350人(平成30年現在)

源流の地

錦川の支流根笠川と島田川の支流東川の源流の地なっていて、美しい湧き水がいたるところからしみ出す水の豊かな里です。
獺越地区と三瀬川地区の境にある法事峠(ほうじだお)(傍示ヶ峠)は、錦川水系と島田川水系の分水嶺となっています。

  • 玖西一の標高を誇る物見ヶ岳(707m)が地区のシンボルの一つです。
  • ササユリやハッチョウトンボ、オオサンショウウオなど貴重な動植物が多く確認され、自然保護の活動が盛んです。
  • きれいな水を活かした地酒があります。
  • 昔ながらのおいしい食べ物があります。
  • 三瀬川や檜余地には加工所があり、たくあん、こんにゃく、豆腐などが丁寧に作られています。また、新規就農者による自然薯や山を駆け回ったいのしし肉もあります。

川越地区の歴史

川越地区は周防国玖珂郡の一部、藩政時代(江戸時代)には傍示ヶ峠を境として三瀬川村と獺越村に分かれ、萩本藩の直轄領として山代宰判に属していた。
(檜余地のみ熊毛宰判に属していた)

明治22年三瀬川村と獺越村が合併し、三瀬川の「川」と獺越の「越」の字をとって「川越村」と名付けられた。

昭和30年、米川村・祖生村、高森町と合併し周東町となる。

平成18年、岩国市・近隣町村と合併

獺越村の由来

獺越村は、嘉禄元年(1225年)伊豆国久須美の伊藤祐朝なる者(または神足式部)、時勢の変動に遭遇して諸国漂泊中にこの地に潜伏し土地を開拓、本地を開いたとされる。(河内神社旧記)
地名の由来は、川上村に古い獺(かわうそ)がいて、子供を化かして当村まで追い越してきたので獺越と称するようになったと言われている。(地下上申)

三瀬川開祖 狩野小五郎

三瀬川は暦応3年(1340年)、伊豆国狩野荘出身の狩野小五郎が当地に漂泊し開拓したと伝えられる。小五郎は三千頭の鹿を仕留め、この地を「三千河」とした。
応永元年(1394年)三瀬川の宝蔵庵僧隆源、大般若経を書写す。その中に「三千河」とあり、中世には三瀬川が三千河と書かれる例のあったことがわかる。
狩野小五郎が勧進した河内神社は水神の罔象女命(みずはのめ)を祭神とする農業守護の社(周東町史)

四郎太郎の戦い

中世の頃、三瀬川の四郎太郎山には「四郎太郎」という武士が住んでいて、近くの「くいな城」(陣固屋山)との間に合戦が行われたとの伝えがある。(周東町史他)

三瀬川の合戦

戦国時代、毛利氏についた椙杜氏と大内氏側の杉氏との間に起こった鞍掛合戦で、敗れた杉氏の残党が三瀬川で掃討された。弘治2年(1556年)3月14日のこと。(周東町史)